ニューカッスルのエース、イサクが語る原点と道のり。「どこへ行っても、最高の自分であろうと努める」
「マッケム・スレイヤー」。かつて宿敵サンダーランドとのダービーで英雄となった彼に、熱狂的なファンが贈った愛称だ。しかし、その勇ましい響きとは裏腹に、アレクサンデル・イサク本人の素顔は驚くほど物静かで謙虚。ピッチを離れれば、家族や友人と過ごす時間を大切にする、一人の青年の姿がある。その冷静な瞳の奥には、どのような哲学が宿っているのか。
今夏、日本代表の高井幸大が移籍したプレミアリーグのトッテナム・ホットスパー。同チームで主将としてチームを牽引するのが、韓国代表のソン・フンミンだ。2015年の加入以来、数々の印象に残るプレーを披露してきた。2024-25シーズン終了時点で、プレミアリーグ通算333試合出場、127ゴール77アシスト。プレミアリーグ史上初、アジア人の得点王という偉業も成し遂げている。
文字通り圧巻の成績を収めてきたソンだが、すべてが順風満帆だったわけではない。移籍してきた当初は「サッカーを楽しいと感じられない」時期を過ごしたという。栄光の裏にあった苦悩と葛藤。韓国を代表するもう一人の英雄パク・チソンが聞き手となり、ソン・フンミンの軌跡を紐解く。
──今日はトッテナムを案内してもらいつつ、あなたの子どもの頃の話から聞かせてもらえますか?
ソン・フンミン:覚えてないです、もうだいぶ歳をとったので(笑)。ヒョン(※)は子どもの頃のこと、全部覚えてますか?
※韓国語で「お兄さん」などの意味。ここではソン・フンミンがパク・チソンをそう呼んでいる
──だいたいは覚えていますよ(笑)。子どもの頃、誰のファンだったとか、そういう話です。ちなみに僕はユン・ジョンファンさんが好きでした。
ソン・フンミン:僕は、ヒョンからすごくたくさんのインスピレーションを受けました。ヒョンの試合をたくさん見ながら、「僕もあんな大きな舞台でプレーしたい」という気持ちを、一番近くで感じさせてくれた存在でした。チャ・ボムグンさんの現役時代は、僕が直接試合を見られる世代ではなかったので。
──僕がマンチェスター・Uに行った2005年、あなたは何歳でしたか?
ソン・フンミン:僕がドイツに行く前ですから、中高生ですね。当時の韓国人はみんなそうだったように、僕もユナイテッドのファンで、ユニフォームを着て応援していました。ヒョンにもアイドルがいたように、僕にとってはヒョンが一番のアイドルで、「ヒョンのようになりたい」という夢を持っていました。プレミアリーグの公式インタビューでも言ったことがあるんです。「僕のヒーローはパク・チソンだ」と。ヒョンを見てたくさん学び、夢を育ててきました。
──その頃から、プレミアリーグでプレーしたいという思いがあったのですか?
ソン・フンミン:はい。これは一度も話したことがなかったんですが、高校1年でドイツに行った時、家族から言われた言葉があるんです。「フンミン、お前が夢見てた“隣町”(本命のプレミアリーグのすぐ近く)まで来たな」って。ドイツもすごい舞台でしたけど、僕が試合を見て育ったのはプレミアリーグだったので、夢ははっきりと決まっていたと思います。もしヒョンがスペインでプレーしていて、韓国でラ・リーガがたくさん放送されていたら、僕の夢はラ・リーガでプレーすることだったかもしれませんね(笑)。
──ドイツには最初、一人で行ったのですか?
ソン・フンミン:最初は協会の留学プログラムで、僕を含めて3人がハンブルクへ、他の3人がニュルンベルクへという形で、1年間滞在することになりました。アパートの一室を用意してもらい、3人で食事や洗濯をしながら、本当に一生懸命過ごしていたと思います。ドイツ語も必死で勉強しました。自分が努力していることを見せないと、現地の友達も心を開いてくれないと思ったので。
──そこからプロ契約までは順調に?
ソン・フンミン:1年間のドイツ滞在後、U-17W杯に出場しました。その後、高校を中退していたので所属チームがない時期があって、イギリスのポーツマスやブラックバーンでテストを受けたんです。でも、当時は今よりもビザの取得が本当に大変で、「ベルギーかスイスに3年くらいレンタル移籍しないといけないかもしれない」と言われて、気が進みませんでした。
そんな時、U-17W杯でベスト8に入った活躍を見てくれたハンブルクから、「契約しよう」と声がかかって。話がトントン拍子で進んだんです。セカンドチームで6試合ほどプレーして、すぐにトップチームへコールアップされました。
──その頃はまだ一人で?家族がいない生活は寂しかったでしょう。
ソン・フンミン:プロ契約をして、経済的に少し余裕ができてから両親に来てもらいました。でも、当時は寂しいとか、そういうことを考える余裕すらなかったと思います。ヨーロッパでの生活は簡単ではありません。ドイツに着いてホテルのベッドに横になった時、最初に頭に浮かんだのは、「ここで契約できなかったら、お母さんお父さんの顔をどうやって見よう?」ということでした。その切実な思いがあったからこそ、憂鬱なことを考えている暇はなかったんです。
──その後レバークーゼンでプレーしている時に、ついにトッテナムからオファーが来たのですね。最初に何を思いましたか?
ソン・フンミン:プレミアリーグのエンブレム、あのライオンのマークが、ものすごく大きく感じました。最初はアーロン・レノン選手が7番をつけていたんですが、「彼は移籍するだろうから、7番は君のものだ」と言われて。ロッカールームに入ったら、僕の7番のユニフォームが用意されていました。それを見た時、「これは現実なのかな?」と。自分が夢を見ているのか現実なのか、認識できないくらい感激しましたね。
──実際にプレーしてみて、プレミアリーグはどうでしたか?ブンデスリーガとの違いに戸惑いは?
ソン・フンミン:ええ、少し戸惑ったと思います。当時のプレミアリーグは今と少し違って、マンツーマンディフェンスがすごく激しかった。でも、1対1の状況が多いなら、自分は逆にやれるだろうと思っていました。
ただ実際にぶつかってみると、一人ひとりのフィジカルが本当にすごくて。力も強いし、スピードもある。そこで少し足踏みしてしまった上に、足底筋膜炎という怪我の影響も大きかったですね。
──キャリアで初めての大きな壁だったかもしれませんね。
ソン・フンミン:スタートは良かったのですが、怪我をしてから試合にあまり出られなくなりました。試合に出られないことが、最初のシーズンでは一番辛かったです。交代で出場してもプレー時間はすごく短かったですし。もちろん監督のせいではなく、自分自身に足りない部分があったと反省できる時期でした。でも、当時は「もっとやれるのに」「これが自分の全てじゃないのに」という想いが強くて、本当に悔しかったです。
──当時はドイツへの移籍の噂もありました。
ソン・フンミン:行きたかったです。上手い下手は別にして、サッカーを楽しいと感じられていなかった。とにかく試合に出たかったんです。選手なら、誰もがそう思うはずですよ。
「この夢の舞台で、僕は通用しないわけじゃない」。それを見せつけたい気持ちが強すぎて、試合では焦ってばかりでした。オフ・ザ・ボールの動きで、あんなに悪く言われたのは初めてでしたね。「自分が全部に関与しないと」と、とにかく必死になっていました。
──その状況を変えたきっかけは何だったのですか?
ソン・フンミン:監督だったポチェッティーノとたくさん話をしました。彼が僕に、残るように説得してくれたんです。そして、移籍市場が閉じた直後のストーク戦で先発出場するチャンスをもらいました。その試合で2ゴール決めたんです。次のミドルズブラ戦でも2ゴール決めて、そこで雰囲気がはっきりと変わりました。
FWはやはりゴールが一番の薬になりますから。それから監督からの信頼も深まり、プレー時間も増えて、待遇も良くなっていきました。
──そこからは、見ている側も安心できるようなプレーになりましたね。
ソン・フンミン:はい。周りの先輩方からのアドバイスも本当に大きかったです。ヒョン(パク・チソン)はもちろん、チャ・ドゥリさん、キ・ソンヨンさん、イ・チョンヨンさんといった方々からもらった言葉が、僕を支えてくれました。
ここにいる選手たちはみんな能力が高い。その中での紙一重の差は、結局“自信”なんです。アタッカーにとって、ゴール一つが生む自信は、本当に大きな差を生みますから。
──2021-22シーズンには、アジア人として初めてプレミアリーグのゴールデンブーツ(得点王)を獲得しました。あの時はどんな心境でしたか?
ソン・フンミン:ゴールデンブーツは本当に重かったんです。あんなに重いとは思っていませんでしたし、手にした瞬間は最高でした。初めて目にしたときは少し感極まって、子どもの頃から夢見てきたものが目の前にあるんだと感じました。実際に握った今でもまだ信じられないほどです。信じられない偉業ですが、チームメイトやサポートしてくれたコーチングスタッフ、そしてすべての人に心から感謝しています。
──クラブでの大活躍によって、今やあなたは韓国最高の選手であり、代表チームのキャプテンです。その立場は、あなたにどんな影響を与えていますか?
ソン・フンミン:行動一つひとつに、すごく気をつけるようになりました。グラウンドの中でも外でも、多くの人が関心を持ってくれていますから。それはとても誇らしいことです。自分の国のことを広く知ってもらえる。そのための役割を果たしながら、ミスをしないようにしようという気持ちが一番大きいですね。
ただ、グラウンドでのプレッシャーというのは本当になくて、むしろ感謝の気持ちでいっぱいです。トッテナムのスタジアムには、本当にたくさんの韓国の方々が来てくださるので、「どうすればこの方々に恩返しできるだろうか」「どうすればもっと誇りを感じてもらえるだろうか」と考えるようになりました。
──海外にいるからこそ、母国への思いは強くなりますよね。後輩たちへの道を作る、という意識も芽生えるのでは?
ソン・フンミン:その通りです。僕がここでちゃんと振る舞わないと、後輩たちや他のサッカー選手たちへの見方が変わってしまうかもしれない。良いイメージを持ってもらい、サッカーへの関心をさらに高める。それは僕の大きな役割です。
僕がここで活躍することが、次の韓国人選手たちのための道を作ることにつながると、信じています。いつも言っていることですが、ヒョンがこのプレミアリーグで道を全部切り拓いてくれた。僕たちは、そのおかげで楽な道を歩くことができています。だから今度は僕が、後輩たちがその道で棘を踏むことがないように、道を整えているような感覚です。
──あなたのおかげで、アジアサッカーを見る世界中の視線は完全に変わりました。これからもキャリアは続きますが、今後の目標を聞かせてください。
ソン・フンミン:プレッシャーかけますね(笑)。
──(笑)。期待していますから。でも一番は、あなたがいつも言っているように、幸せに、怪我なくサッカーを続けてほしいということです。
ソン・フンミン:ありがとうございます。これからも韓国サッカーのために、そして選手として、もっとたくさんのものを見せていけるように頑張ります。遠いところまでお越しいただき、本当にありがとうございました。今度、ご飯おごってくださいね(笑)。
──もちろん(笑)。今日はありがとうございました。
ソン・フンミン:こちらこそ、ありがとうございました。
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